私はこれで、それなりに信じているんですよ。難しいのは「神」ってナニ?ってとこでしょう。

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偏った先入観というか既成概念なのかもしれないけど、小説とか、映画とかを見ていて思うのは、
「神の思し召し」
ってフレーズが出てきたとき、イスラム教だと、何かトラブった場合に、しょうがないよ神さまがそうしてんだからさ、っていう責任転嫁っぽい使われ方で、キリスト教だとそれは神が与えた試練、真摯に受け止めなくてはいけないみたいな使われ方が多いな、って思うんですよね。同じフレーズでも意味が違うなと。

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『魍魎の匣』。近くで上映してない。…。
『姑獲鳥の夏』も見てないですけど。どうでしょうか。原作ファンには不評なようですが。
原作は異常に分厚いことで有名ですね。『塗仏の宴』までは全部読みました。この一連のシリーズもそういやなんだか宗教学っぽい要素がみっしり詰まっているように私には思われます。『姑獲鳥〜』では脳で意識して認識することが人の感覚の全てであるみたいなこと言ってんのかなって思ったし、んじゃ肉体は精神の枷なのか的な話を『魍魎〜』で言ってんのかなって思ったし、その次の『狂骨の夢』でキリスト教でしたっけ?ほかにもなんか絡んでた気がしますが、肉体から精神を解き放つには、みたいな話でしたか?記憶薄れてるなー。んで、『鉄鼠の檻』で禅という手段で肉体から意識を解放することが可能であることを示してんのかな、って思って、その後もあらゆる信仰や宗教が毎回絡んできて、それにいちいち延々と死ぬほど長ーい解説がついているようなシリーズだったような気がしてます。読んだの、もう5年以上前だもんな、考えてみたら。でも鬼のように分厚い新書版が手元にあって、物凄い場所を取るのでどうにかしたいと思っているのだけど、もっかい読んで記憶を新しくしてから…というどーしょーもない状態に…。

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